風の向くまま

〜Oz's Leaves管理人のブログ〜
私は「うつ依存症」の女〜プロザック・コンプレックス〜
マンガ/読書
私は「うつ依存症」の女〜プロザック・コンプレックス〜
エリザベス・ワーツェル著  滝沢千陽訳  講談社

ハーバード大学在学中にカレッジ・ジャーナリズム賞を取り、音楽評論などで活躍している(た?)著者の半生記。11歳から患っていたうつ病がどれだけ苦しかったか、をひたすら吐き出した本だ。

描かれているのは、過激なヤンデレ。とにかくはた迷惑な女だ。両親の愛情不足はあったのかもしれないが、他と比べて特にひどいわけでもない。本人的に足りなかった親の愛情を恋人で埋めようとするが、重すぎる女なので、なかなかうまく行かない。数々の精神科医やセラピストも無能呼ばわりし、ひたすら他人が悪い、他人が悪いと、全てを他人のせいにする。

「うつ」ってこんな病気だったっけ? それともアメリカのうつはこうなのか? 私の知人のうつの人は、自分を責める傾向が強い人ばかりだった。それと比べるとかけ離れすぎて、かなり驚きだ。

最後の章で「私はうつ病に恋をしていたのだと思う。うつ病は自分を価値ある人間とする、個性の一つにすら思っていた」と書かれている。つまり本のタイトル通り、彼女の問題は「うつ」ではなく、「うつである自分に依存している、うつ依存症」であることだったようだ。
「不治の病にかかっている可哀想な悲劇のヒロイン」に憧れて、「うつ病に苦しめられている悲劇の(周囲から見たら迷惑な)ヒロイン」を演じ続けていたわけだ。

著者のあとがきには、とにかくその時の気持ちをありのままに書きたかったと書いてある。「病気がひどくなったときの頑固で要求だけが高く、自己中心的でわがままな私の姿をそのまま書いたつもりだ。読んでいると怒りで気分が悪くなったと評した読者が少なからずいたが、そう思ってくれたなら、本は成功したと思う。読者が感じた怒りや不満は、実生活でうつ病の人と接した人が感じる空虚感に通じるのだ。うつ病はナルシスティックな病だ。深く激しい自己陶酔から、患者は自分の考えから離れることができず、世の中の良いことも純粋な愛も見失ってしまう」

親との関係がうまく構築できずに問題を抱えた依存症とか、発達障害といった病気を「うつ」と置き換えれば、話が通じてくる人も出てくると思う。
きっと私自身も、この著者が本を書いた年齢のころに親子関係に関してインタビューでも受けたら、こうした毒を吐き散らしていただろう。つまり、この本の醜さの一部は、私自身も明らかに持っているものなのだ。

人生のある一時期に親を恨んだり憎んだりしたという事実は、何をもってしても消えない。でもその事実を、ただ淡々と森田療法的「ありのまま」にしておければ、それはそれでいいのだろう。それを吐き出したり、何かの言い訳に使うようになったら、即「みっともない大人」になりさがるのだ、ということを、改めて思い知らされた。まさに「人の振り見て我が振り直せ」というやつだ。

それでもこの著者は、父親はIBMの社員だし、本人も天下のハーバードに入っている。ダメ男、ダメ女として描かれる父親も本人も、地頭がよく、やるべき努力はきちんとやってきた人間なのは明らかだ。そんな誇るべき要素もあればこそ、こんなに負の面をさらけ出せたのかもしれない。

ということで、ごくごく普通に親に愛され、親を愛して、常識的な道を歩んできた方には、この本はお勧めしない。自分の弱さや醜さを自覚していて、それを鏡に映して反省の種にしたい方には、なかなか良い本だと思う。
|2015.05.30 Saturday |
怪異と身体の民俗学
マンガ/読書
「怪異と身体の民俗学」―異界から出産と子育てを問い直す― 安井真奈美 せりか書房

たまたま図書館の新刊コーナーにありふと手に取った。ものすごい取り合わせだし、内容も散漫に見えるほど多岐に渡っていたのだが、意外と面白かった。

第1〜3章は妊婦が亡くなった時に腹を開いて胎児を取り出し別々に埋葬す胎児分離という風習、お産の死亡率が下がっていくにつれてそれが水子供養に変遷していく過程、また胞衣の取り扱いなど、お産に関わる数々の民俗学者のレポートや、産女伝承、子育て幽霊伝承などを紹介しながら、著者の考察が述べられている。
第4章は乳歯の取り扱い。昔は縁の下や空に投げていたものだが、今は豪華な容器に入れて取っておくようになっている。
第5章はおんぶと抱っこに関する考察。子供が生まれてもそれを背負って畑仕事などを続けねばならなかった時代から、作業から解放されて抱っこに変遷してきた過程を考察する。
第6章は分娩台についての考察。物理的に考察をすると仰臥はお産には最も不向きな恰好のはずなのだが、医師側の利便性を追求してできた分娩台が、すっかり普通になってしまった過程を追う。
第7、8章は、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースから、手、目といった身体の部位を示す言葉を検索して、怪異と近しいと考えられている部位がどこかという分析。そして背中の特異性について述べられている。背中は魂が抜ける場所だったり恐怖を感じる場所だったり。実際に触感についても手や足に比べて鈍く、顔と背中は自分では見られないが他社に晒されている特異な場所であるという記述には、おおっと思わされた。
第9章は著者が学生たちにオリジナル妖怪を作らせてみて、それがどのように変異していったかということ。これが結構面白くて、造られる妖怪が4パターンになる。
1)身近に起こる不思議な現象をとらえたもの(部屋の隅から見ている妖怪とか)
2)コントロールできない自分を妖怪のせいにするパターン(妖怪爆睡魔)
3)モラル違反を妖怪になぞらえる(コソ泥爺など)
4)世直し太郎、のような世直しの期待を込めたもの
で、2のタイプが徐々に増えてきているそうだ。
公園で遊ぶ母と子を妖怪に見立てて「うざい」と名付けた学生がいたり、プリキュアの敵が「ウザイナー」という名前だったことを取り上げ、一つ目小僧のように見た目がどうかではなく、それを見た時の感じる感情をそのまま名前にするというのはかなり暴力的だ、という記述もなるほどと思った。
あとがきではパラオの母系親族集団による子育てについて少し触れられている。父親は自分の子供と同様に姉妹の子供をかわいがるという話。(この本では語られていないが、これは遺伝学的にも納得できるもので、自分の子供は自分の因子の半分を100%持っている。兄弟の中に自分と同じ因子が入る確率は50%、甥や姪は25%になる)。母系親族集団で共同育児のような助け合いの育児が行われてきたが、そこにフィリピンからベビーシッターが入ってきたことでそれが崩れた。若いものに育児を手伝わせようとすると、対価を要求するようになったからで、貨幣が人間関係を変化させてしまった。

基本的には論文なので、感情や善悪は見事に排されていて読みやすかった。こんなことを一生懸命調べまくっている人がいることも、自分がこの本を手に取った、という事実も興味深い。人は人をとても知りたがっているが、簡単に「これ」と答えがでるようなものではないということなんだろう。
|2015.03.29 Sunday |
奇祭
マンガ/読書
「奇祭」杉岡幸徳 実業之日本社

奇祭評論家の杉岡先生と編集担当の鈴木さんがおしゃべりしながら奇祭をめぐるという趣向で、日本各地の不思議なお祭りを写真入りで紹介された本。

性器の形のご神体を持って練り歩くとか、秘宝館的なアヤシイお祭りがあることは知ってましたが、秘宝館祭りがまさかこんなに沢山あるとは(笑)。日本人、、、エロ好きですね。
貞淑さとか一夫一婦制といった社会通念は、明治時代にできたものとの注もあり、その昔は性に関しては本当に奔放だったようです。
結構驚いたのが、昔は入り婿は村の他の男たちにひどく迫害されたそうで(村の共有財産である女を取ったということで)、裸揉みのような祭りで苛められて、中には殺されてしまったケースもあるとか。なんかライオンとかオオカミみたい。昔の人にとって「性欲」のウェイトは本当に高かったんだなぁと改めて思いました。


個人的に一番の奇祭は、やはり青森のキリスト祭りでしょうか。竹内巨麿という人の書いた竹内文書というトンデモ本によってでっち上げられた説に基づいて成立したお祭りがずっと続いているもの(ちょっと身もふたもない言い方ですが)。元がトンデモ本でも、ここまで続けちゃったらやめるにやめられない。。。よな。なんかすごい話です。

それ以外にも、神官に大根をぶつけるとか芋の茎の長さを東西で測りあうとか、シュールなお祭りが大量に。中には「牛乗り・蜘蛛舞」とか沖縄の「パーントゥ」とかかなり怖いお祭りも紹介されてます。
対話形式なので、臨場感があって気楽には読める。お祭りの背景とか歴史とかもうちょっと触れられてたらもっと良かったんですが、そういうのはネットでいろいろ調べられますからね。

でも、この奇妙なお祭りの数々をずっと続けている人たちがいるのがすごいと思います。人手が集まらなくて困ったりとかしないのだろうか。自分は祭りと縁のない子供時代だったので全くぴんときませんが、やはり子供の時から祭りを伝承していくのがごく自然なことになっているのかな。とにかく存続のために協力していく人たちのバイタリティは本当に尊敬できます。
|2015.03.24 Tuesday |
ウェブはバカと暇人のもの
マンガ/読書
「ウェブはバカと暇人のもの」 現場からのネット敗北宣言 光文社 中川淳一郎 2009年

釣り気味のタイトルだが結構面白かった。不特定多数のコメントにさんざん苦労させられてきた鬱憤を爆発させてる感じも少々あるが(笑)、自分も日頃感じていることがうまくまとめてくれてる感じだった。まあ統計などの裏付けがあるわけじゃなく、著者の感覚的なものなので、これが本当に真実なのかどうかはわからないが。

この本のキモは「暇人はせっせとネットに情報をアップし、リア充はそれを実利に生かしている」ってことだと思う。リアルの社会で成功している人は、客の前で話せば金になることを、わざわざ時間をかけて(それも金にならないのに)ネットにアップなどしないし、その時間もない。

興味深かったのがネットと既存のメディアの重なり方で、一番重複しているのはTV。つまり多くのネット民はTVを見ている。両方とも「固定料金で見放題」というところが同じで、暇な人間ほどのめりこみやすい。
じゃあTVがネットに取って食われているかというとそんなことは全くなく、まずはTVで見たものを、ネットでネタとして挙げているので、TVの優位性は崩れていない、とのこと。著者のサイトでも「TVでもっとすごいのを見た」とか「TVでこう言っていたので、この記事は間違っている」といった書き込みが多いのだそうだ。

一番重複しないのが雑誌で、出版社がネットで発信しない記事はネットでは話題にもならない。わざわざ金を出して雑誌を買って情報を得ている人たちは、それをブログで話題にしたりはしないというわけだ。
雑誌や(たぶん新聞も)ターゲットが決まっているので、読み手が作者の意図とは異なる部分の揚げ足を取って、差別だとか失礼だなどと妙な突込みをしてくることはない。だが不特定多数が読むネットでは、わけのわからんコメントや突込みが入って炎上するようなことも多いので、結局無難な、当たり障りのないことしか書けない。
「ネットが自由と考えているのは失うものがない人だけだ」という著者の言葉は言いえて妙。自由なはずのネットが一番不自由というのは皮肉なものだが、でもそれは実際そうだと思う。

そして著者は一時期はやったWeb2.0や双方向性に関しても懐疑的な事例をあげる。そういった概念が役立つのはある程度限られたコミュニティにおいてだと。極論すれば一般コンシューマーを相手にする場合、インターネットは所詮「看板」と割り切ったほうがいいということか。ヘタに顧客の声を集めようとするとリスクも大きくなる。


インターネットは確かに便利だが人間はネットによって賢くなるわけじゃない。愚かな言葉が簡単に表面に出てくるようになってしまった部分もある。でもそれは普通選挙と同じように必要なことなんだろう。
だからこの著者が言うようにインターネットがリアルに負けたわけじゃない。普及につれて、使う能力を持っている人達だけが使っていた「理想の世界」だったインターネットが、「現実の世界」に限りなく近づいただけなんだろう。そしてこの本の発売から5年経って、ビッグデータが扱えるようになった今、ネット民の声は「傾向」として集約することで、初めて役に立つようになったと言えそうだ。
|2015.03.22 Sunday |
千葉市の昭和
マンガ/読書
先日旦那が本屋で「千葉市の昭和」という写真集を衝動買いしてきました。昭和30年代ぐらいの千葉市の写真が沢山載ってる。どうも個人所有の写真を集めたものらしいのですが、いや、これだけよく集めたな!とびっくりしました。
私が見ても「あーこのあたりって小さい頃こうだった!」と懐かしいものもあれば、生まれる前の風景でわからないものもありました。
値段は1万円ぐらいしますが、この貴重さから考えれば安いもんです。すぐに売り切れになっちゃうと思って、親のためにもう1冊慌てて買いました。出版社は新潟の本屋さんなんですよね。金儲けじゃなくて、ずっと後世に残すべきものを真摯に「本」にしている、そんな気がして、とても好感が持てます。今は世田谷区の写真を募集してたりします。

|2011.10.10 Monday |
釣りキチ三平ラプソディ
マンガ/読書
最近ふと釣りキチ三平が読みたくなりました。小学生の息子と釣りに行く弟も、平成版を文庫で買っていて、昭和版を買おうかどうしようかと悩んでいたとのこと。実際甥っ子もかなり気に入っているらしい。なにより話はいいし漢字も多いし、あれは子供に読ませるべきマンガだ!と、弟が熱っぽく語るので、微笑ましかったです。

ということで昭和版は我が家にまかせろということで、釣りキチ三平購入作戦を開始したのですが‥‥‥‥

いやはや状況を見てびっくり。私にとっての釣りキチ三平はもちろんごく普通の講談社コミックス(KC版)。でもその判は絶版になって久しく、ぱっと手にはいるのは文庫版のみ。古本市場でも出回っているのは大判(講談社コミックスペシャル版 KCSP版)ばかり。そしてなんと! 大判や文庫版は収録の順番が単行本と全く違ってる!

一時は復刻COMで6万円かけて買おうかと本気で悩みもしました。でも原版から印刷されたならいざしらず、コピー本に6万もかけるのもちょっと‥‥(苦笑)
ということであきらめて大判39冊を購入してしまいました‥‥。まあ大きな違和感があるのは小田切さん(本来ルアー大会で知り合いになってその後アカメの章で出てくるキャラだが、大判ではまずアカメ、ラスト近くでルアー大会になっている)ぐらいですけど、でも因果関係がおざなりになってる作品を小学生に読ませるのには、やっぱりちょっと抵抗を感じるんですよね。

だいたい三平はノウハウマンガじゃないのだから、釣りや魚の種類で分類した版だけが残っているという現実はちょっと寂しい。もちろんそういう判もあってもいいけど、ごく普通の順番の版もきちんと復刻して欲しいです!

買ったあとでうーんと悩み始めた私を見て、結局夫が初期の講談社コミック版をネットで買ってくれました。夫の方がこーゆーの見つけるのうまいんですよ‥‥。で、大判全巻はまた売りました。差額1万円強ムダになりましたが、2セット置いとく場所は無いです。オレに黙って買うからだって夫にも怒られました。
でもでも! 大判にしかないあとがきは面白かったんですよ。一平じいちゃんが亡くなる最後の巻の大判の裏表紙がまた本当にいい絵で、それを見られたのは良かったです。

さて晴れて昭和版KC版を弟に貸したら、弟から平成版が来ました。長い年月が経っているのに絵も世界観もほとんど変わってないのに驚嘆しましたが、でも魚紳さんがインターネットやってたり、携帯電話が出てくるのが、すごく不思議な感じでしたねー(笑) 長期連載漫画では、ガラスの仮面でもマヤがケータイ持ってて、おおお!と思いましたが。

さて今回なんでこの話題をブログの方に上げたかというと、このページを紹介したかったからです。
釣りキチ三平コーナー(マンガコレクション(ボクの本棚))
ここのKCスペシャル版作品リスト、すごく有り難かったです。やっぱり熱烈なファンはいらっしゃるんですね。嬉しいです。
|2009.09.15 Tuesday |
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