風の向くまま

〜Oz's Leaves管理人のブログ〜
愛のむきだし
映画/展覧会等
満島ひかりの演技が話題になっていたので見た。Wikiなどを読んだ限り、途中で飽きるかなと思ったが、飽きずに最後まで見てしまった。主役の3人を始めとする出演者の演技と、画面作りの妙といったところか。本当にここまでの時間をかける意味はあったのか、推敲と整理不足の長い小説みたいな印象も確かにある。でもまあ「時間が長い」というのを話題作りにする手もあるのだろう。

通り一遍の映画ではないので自分なりに解釈してみたいと思ったが、解釈するには細かいあらすじが必要で、かなり細かいストーリーを書いてしまった(ネタバレになっているのかどうかは、わからないが)。映画を楽しみに見たい方は、以下お読みにならないでください。
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|2015.03.23 Monday |
シャニダールの花
映画/展覧会等
たまたまWOWWOWで映画「シャニダールの花」見た。正直、うーん、なんだかなぁという印象が否めなかったのだけど、なんでそう感じてしまったのかは、こちらの記事が本当に素晴らしい分析をされていて、いちいちごもっともでしたので、そちらをご覧ください。

で、こういった理詰めの分析とは別に、何か釈然としないものを感じながらこの映画を見終わった。それは、作り手が、"植物に征服される人間"というシチュエーションを肯定してるのかしてないのかが中途半端で、誰に感情移入したらいいのやら、大変に居心地が悪かったからだ。

胸に花が咲いた少女たちは、周囲から不気味がられるでもなく(本人が恐れないのは、花が宿主を落ち着かせるために化学物質を放出している可能性もあるが)、大金をもらってなに不自由ない贅沢な管理下におかれている。なんのために花が使われているのかが全くわからないので、入院している少女達が、花を宿したことで何を引き換えに失っているのかが描かれない。
身寄りのある患者なのに、花の採取後に患者が死んでも、完全にごまかしきれてるようで、特に"組織"が糾弾される様子も描かれない。"組織"の象徴として描かれる吉崎所長も、後悔も開き直りもなくのほほんと生き延びている。

ヒロインの響子は花の魅力に取り込まれて胸に咲いた花を増やそうとする。それを阻止しようとする恋人の大滝は、人が人であろうと雄々しく立ち向かう風情ではなく、ただ魔花の進化についていけない情けない存在として描かれていく。
植物によって滅ぼされていく破滅ものなら、いろいろ足掻いても敵わないという無力感のようなものが表現されて、それで、作り手の立つ側=視聴者を引き込む側は人間なのね、と思えるのだが、この映画はそうではない。だからといって完全に花の側に立ってるのでもなく、「実はあの花、ヤバいんだよ」みたいなことが語られたりする。
「本音としてはみんなで花になったらいいと思うんだけど、映画でそれを言っちゃまずいかなぁ」みたいな中途半端さから抜け出せない。

人間がきちんと生きていくことはかなり大変だ。「ただ何も考えず夢見るように生きていけたらそれはそれでラクかもしれない」という妄想は、折に触れて、多くの人の心に、強烈な麻薬のように浮かんでくるものだ。
この映画の監督や脚本は、その麻薬に負けてしまっているように感じられて、それがとても釈然としなかったのである。
|2014.09.16 Tuesday |
二人のタケヒコ氏
映画/展覧会等
2004年の年末。日経新聞を開いた私はしばし言葉を失い、その紙面に見入った。
第二回 雲水渓 菅原健彦氏の絵がそこにあった。

それまでの私は絵画に感動したことがなかった。見ていて心地が良いとか、逆に好きになれないとかはあっても、たいていの絵の前はただふーんと通りすぎるだけだ。
だけどこの絵は過去見たどんな絵とも違っていて、新聞の写真だというのに私は泣きたくなった。「感動して」というよりは、「心の中に発生した大きなストレスを排出すべく涙を流したくなった」と言った方が、あの時の気持ちには近いと思う。
その時はどうしても都合がつかず実物を見にいけなかったが、今年、その絵が練馬区立美術館に来た。万歳。すべてに感謝します。

そうして今、私は雲水峡の前にいる。
5年前と同じ感覚を、何倍ものスケールで感じている。


雲水峡は一般的な意味での「写実的な絵」ではないと思う。木も岩も水しぶきも、カメラで捉えるような形としてはそこには存在していない。

なのに、自分がその場所に居るような気になる。木や水や大地の‥‥そこにあるあまたのエネルギーを直接に感じられるせいだ。多くの菅原評を読むと、他の多くの方々も同じように感じているように思える。

そこに形は無い。なのに人が共通して感じられるような圧倒的な臨場感を生み出す絵。

なんでそんなものが描けるんだ。


この5年間、私は時々考えていた。なぜこの絵に惹かれたんだろうと。それを教えてくれたのは、もう一人のタケヒコ氏。言わずとしれた漫画家の井上雄彦氏だ。

白状すると私は彼の描く人物の顔形が好きではない。本当に申し訳ないけどどこか苦手な顔立ちなのだ。だからスラムダンクも読んでいなかった。当然バガボンドも読んでなかったのだが、ふと手にとった単行本の胤舜とのやりとりで打ちのめされた。
武蔵の命を糧に先に進もうとする者の感謝と慈しみと、冷酷さと満足感‥‥。胤舜の感覚が本から飛び出してきて私の中に入ってきた。ショックだった。

それでバガボンドを読むようになって、改めて井上雄彦のすごさがわかった。彼の絵の形が苦手だから、余計そう思う。絵がうまいかどうかは私には判らないし、スラムダンクを読んで、キャラ配置がかぶっていたりするのを見ると、もしかすると「うまい漫画家ではないのかもしれない」と思ったりもする。
でも彼の絵はすごい。文字でもマンガでもこのシーンを書いて(描いて)いた時、作者はある「域」を越えてしまってたんだろうな‥‥と感じられる事が時たまあるけど、バガボンドは半分以上がそんな感じ。音楽や演劇で言ったらどの回もどの演奏も、なんか憑依してて、なんかいっちゃってるというか‥‥。その激しさは、たかがマンガにそんな苦しい想いをしなくていいじゃないかと、言いたくなるほどだ。

好きではない絵をなぜすごいと思うのだろうと、こちらもずっと不思議だった。そして武蔵が小次郎と雪だるまを切って遊ぶシーンを読んだとき、やっと気がついた。
井上氏はひたすらに「感覚」を描こうとしている。普通の作家だったら自分の「思い」や「感情」を表現しようとするのに、井上氏はそれぞれの登場人物になりきった上で、その人が今現在感じている感覚を、ありのままに描こうとしている。だからこんなにすごいと思うのだと。


そして雲水峡に惹かれた理由も分かった。実物の前に立って、改めて確認できた。菅原氏もまた、雲水峡に立った時に、自分中に生まれた感覚を、ただそのままにここに描いたのだ。きれいだとか美しいとかそういった感情を一切廃して。

センサーである「感覚」が受け取ったデータを、自分独自の感情というプロセスで処理せず、ありのまま生データのまま描き出した絵。それが雲水峡なのではないか。だから見ているこちらもその空間にいるような感覚になる。五感とは異なる感覚を再現するバーチャルリアリティと言ったらいいだろうか。その意味で言ったら、雲水峡はまさに「写実的な絵」なのだろう。
二人のタケヒコ氏は、本来視覚用の記録、表現形態である絵に、五感以上の感覚を埋め込む魔法を手に入れた、感覚の表現者なのかもしれない。


今回の展覧会は雲水峡以外にもたくさんの絵を見ることが出来た。「音」や「聴音無量」「Milford Sound」からは、静寂の音、水の音、風の音が聞こえてきた。視覚にしか訴えることのできないはずの絵で、音を奏でるのも、感覚を描き出すこの人だからできる魔法だと思う。

最新作の雲龍図を見て、この人はまた別の世界に行こうとし始めていると感じた。また数年後、この人の絵の前に立ちたいと思う。

菅原健彦ウェブサイト
雲水峡は日経新聞の所蔵のせいかご本人のウェブサイトには無く、大学のサイトに小さく載っているだけです↓
京都造形芸術大学の菅原氏のページ
|2009.12.12 Saturday |
原作カムイがニヒリズムだって?
映画/展覧会等
日経8月19日夕刊。カムイ外伝の監督、崔洋一氏のコラムに驚いた。

「階級闘争を背負って、組織運動をする若き革命家。40数年前に原作を読んだとき、僕自身、カムイのそんな姿にひかれた。でも時代は変わった。世の中は原作者や僕が夢見たようには動かず、原作のカムイはどんどんニヒルになっていった。漫画が未完のままなのは当然の帰結だろう。
 僕はニヒリズムに抵抗したい。そのためにカムイをマッチョな人間ではなく、弱さや未熟さに悩む人間に変えた。マッチョな人間は、理想がかなわないと、その強さ故にニヒリズムに陥るからだ」

驚いた。私は原作のカムイを読んで、彼が言ったことなどひとかけらも感じたことはない。どうやったらあのカムイに革命家やニヒリズムなど読み取ることができるのだろう。

カムイの義兄の正助は確かに革命家といえる。厳しい階級制度のさなか、百姓でありながら非人であるカムイの姉と結婚し、一揆を先導していった。しかしカムイには組織的な活動などする度量はない。ただ非人という階級から抜け出すために忍びの道を選ぶ。だがそこも上の命令には絶対に従わなければならない世界だった。罪もない女子供を切れと言われたカムイは、どうしても切ることができず、抜け忍となる。

カムイは肉体的には強い。天才的な忍者だ。だがある意味では弱い。本心では人との交わりを求めてやまないのに、一般の人に紛れてくる追っ手の陰に怯え、結局一人きりでいるしかない。
正助は真逆だ。ごく普通の百姓で、別に戦闘力があるわけじゃない。だが、理不尽な差別社会と戦うために、立ち上がる。人の強さという意味では、たぶん正助の方がよほど強い。

正助の強さをカムイは知っていて、姉の伴侶でもある正助をできる範囲でフォローしようとする。だがあくまで「できる範囲で」だ。自分が生きるための戦いで、カムイは手一杯なのだ。カムイは自分が生きるために、降りかかる火の粉を払うように多くの追っ手の命を奪い続ける。自分が「なぜ」生きたいのか、その問いに答えることもできないまま。

一部の終了から長い年月を経て描かれた第二部になると、劇画タッチの絵柄と反比例するようにストーリーは優しさに満ちてくる。求めてやまなかった他人との心のつながりをカムイ手に入れていくのだ。他人を救い、守り、尊敬され、時には任侠一家がカムイを守るために追っての忍者達と戦い死んでいく。
この心地よい甘さは作者のカムイに対する限りない優しさと肯定の顕れに思える。歴史と社会構造の大きさに無慈悲に踏みつぶされていく個人をこれでもかと描き続けた白戸三平が、こんな優しい作品を描くようになったのか!と驚いたくらいだ。

いったいこのカムイ外伝のどこがマッチョだ。どこがニヒリズムだ。どこが革命家なのか。この監督がカムイ外伝の原作にいったい何を見ていたのか、私にはとうていわからない。

私がカムイに惹かれたのは、たぶんその弱さ故だったと思う。まさに「母性本能をくすぐられる」というところか。カムイ外伝第一部(最初の3巻)を初めて読んだのは小学生の頃だが、それでもそう感じたのだから女ってのは面白い。当時の時代劇ヒーローで言えば、たとえばさいとうたかをの無用の介などにも、母性本能をくすぐる弱さの魅力があったと思うし、石森章太郎のヒーロー達にも通ずるものがある。

私は原作のカムイにまさに「弱さや未熟さに悩む人間」を見ていた。だから今回の映画でもたぶん「原作通り」の強くて弱くて優しいカムイに会えるんだろうなと期待している。
それが監督の意に沿っているのかいないのか、よくわからないけれど。
|2009.08.23 Sunday |
蛇にピアス
映画/展覧会等
主人公の少女がひたすらに逃避を続け、最後まで逃避し続けて、それで終わる。そんな感想を持った。これが今の一部の若者の現実だと言われればそうなのかもしれないが、後味は悪い。
(※以下ネタバレ有り)
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|2009.05.24 Sunday |
ロボットクモ
映画/展覧会等
横浜開港150周年のイベントでクモが登場。世間知らずなので知りませんでした。「ラ・マシン」
ぱっと写真で見たとき、なんか宮崎アニメに出てきそうなデザインだなーと思ったのですが、こんなのが実際にそこらを動き回ってるなんて凄い!! 巨大ロボが出現する日も近いのかも。

Y150硬式サイトから
米光一成さんのブログ

ロボットつながりで言えば、しばらく前のクローズアップ現代で、日本のロボット技術を軍事利用しようとあちこちの国が狙っているって話をやってました。日本ってそういう点ではお人好しで無防備だから、とっても恐ろしい気にはなるのですが。
でも、日本でロボットを作っている人達は本当に子どもの頃の夢のままにものすごいものを作ってるんですよね。それで世界の最先端に行ってるのは、誇っていい国民性だとも思った。軍事のために開発するより、夢のために開発したほうが先に行けるんだよって。

クモつながりで言えば。
一ヶ月ほど前ですが、「アシダカグモ」ってのを初めてみました。
ある日家に帰ったら床に7cmほどの小枝のようなものが落ちてるんですよ。じーっと見てるうちに、これは虫の足なんじゃないかと思い至って。でかさから考えるとクツワムシの後ろ足? でも時期はずれだし、クツワムシって緑だし‥‥と悩んでたら、それを拾い上げた夫が
「これ、徘徊性のクモの足だな。このでかさだと、アシダカグモってやつじゃないか?」
なんでわかるんだ、夫よ。

探してみたら家の中にいたんですよ。もちろん7本足です(足を取ったのは絶対マールちゃんでしょう)。あんなでかいクモ初めて見ました! 虫についてはかなり平気な私も固まりましたねー。クモの好きな旦那は「セブン」って名前をつけてましたが、一応外に出て頂きました。
しばらく見てれば慣れて愛せるようになるかも‥‥とは思いました。でもマールと同居は無理。出てくるたびに足が1本ずつ減って、名前がカウントダウンになったら大変だもん。

昔別役実の「虫づくし」の蜘蛛の項で「蜘蛛を食って幻覚症状を愉しむという方法は、遠く平安時代からすでに知られていたのである。ただしこの蜘蛛が幻覚剤として特殊なのは、蜘蛛そのものの中に人をして幻覚せしめるなにものかがの成分が含まれているのではなく、人が蜘蛛を食おうとするその決意のうちに、人をして幻覚せしめるあるものが含まれているという点である」って文章があって、えらく印象に残ってます。
|2009.04.25 Saturday |
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